神戸七福神巡り 湊川神社・摩耶山天上寺
神戸七福神巡り 湊川神社・摩耶山天上寺

神戸七福神巡り・前編
湊川神社・摩耶山天上寺 有馬ナビ

今回の有馬ナビでは、神戸七福神の湊川神社(毘沙門天)、摩耶山天上寺(布袋尊)と有馬温泉の初夏のイベントをご紹介します。また、神戸のお土産の代表「菊水聰本店」の瓦せんべいをご紹介します。
神戸にある、七福神にゆかりの神社仏閣を総称して「神戸七福神」と呼びますが、いずれも神戸を代表する観光スポットです。有馬ナビでは各寺社を廻り、名所旧跡を取材するとともに、7枚のお札(700円税込み)を戴いてまいります。この「七福神」特集は、前・中・後篇の3回に分けてご紹介します。
また、6月の有馬温泉は、有馬川のホタルや念佛寺の沙羅双樹の花など、見所が沢山あります。ぜひお越し下さい。

神戸七福神巡り 湊川神社・摩耶山天上寺 マップ

神戸七福神巡り 湊川神社・摩耶山天上寺 マップ

〜今回の有馬ナビでご紹介します観光スポットです〜
神戸七福神・前篇 湊川神社(毘沙門天)   摩耶山 天上寺(布袋尊)
菊水聰本店 (瓦せんべい)
有馬 初夏のイベント 有馬川のホタル  念佛寺「沙羅の花と一弦琴の鑑賞会」


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神戸七福神
大黒天、毘沙門天、恵比寿天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊の七つの神様を総称して、『七福神』と呼びます。
「七難即滅、七福即生」という説に基づいて、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われています。七福神の信仰は、室町時代の末頃から生じましたが、当時の庶民性にアピールした民間信仰として受け継がれ、特に農民や漁民などの信仰として成長し、現代まで生き続けてきました。
神戸地区では、この七福神に縁のある湊川神社・長田神社・生田神社・天上寺・大龍寺・須磨寺・念佛寺の七つの社寺を総称して「神戸七福神」と呼んでいます。今回の有馬ナビでは、この中で、湊川神社と天上寺について、詳しくご紹介いたします。

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湊川神社 毘沙門天
湊川神社 毘沙門天
【毘沙門天(びしゃもんてん)】

●古代インドでは武勇の神様であり、東西南北を守る四天王の一人です。北方を守るとともに、仏法道場も守護する役目があるため、仏法を聴聞することから「多聞天」とも呼ばれています。
聖徳太子が四天王寺を建立し、持国天・増長天・広目天・多聞天を祀られたのが始まりです。七福神の中で唯一、武将の姿をしており、左手には宝塔を持ち、右手には宝棒を持っていて、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけています。
庶民からは、財宝を授ける融通招福の神として信仰されています。

●楠木正成は、お母さんが信貴山の毘沙門天に百日詣をした末に生まれた所から、生前は、毘沙門天の申し子と言われ、“多聞”という名まで貰っていました。

湊川神社 毘沙門天湊川神社 毘沙門天
【湊川神社(みなとがわじんじゃ)】

「湊川神社」は、足利尊氏との戦いに敗れ、この地で没したとされる楠木正成(大楠公)を主神として祀り、弟の楠木正季以下の一族将士の霊を配祀しています。
初代兵庫県知事の伊藤博文の尽力により、明治天皇の創祀御沙汰書を頂いて、1872年に現在地に鎮座され、地元では「楠公さん」という愛称で親しまれています。

7月21日の例祭の他に、御鎮座記念日である5月25日には神幸祭が行われ、湊川の戦に殉難した楠木正成の一族16将を擬した騎馬武者行列が市中に繰り出されます。

神社の宝物としては、重要文化財に指定された、楠木正成が着用したと伝えられる「段縅腹巻」、また、楷書では唯一とされる楠木正成自筆の「法華経奥書」があります。他に奉納刀剣や、横山大観、前田青邨など、著名芸術家たちの大楠公像など楠木正成ゆかりの文化財が約100点も、境内に設けられた宝物館に収められています。
湊川神社 表神門〜本殿
湊川神社 表神門〜本殿
JR神戸駅、または高速神戸駅を下車して、直ぐに見えて来るのが非常に大きな燈篭および゙湊川神社" と記された、これも大きな柱(社号標)です。
これらを見ながら表神門をくぐると、神社の境内になります。

湊川神社 寄贈酒樽
湊川神社 菊水の紋
湊川神社の本殿は、1872年に素木造りの本拝殿が建てられたのですが、戦災により焼失したため、1952年に鉄筋コンクリート造りで新築復興されたものです。


近代的な建築物に、楠木氏の家紋 「菊水」が要所に打たれています。
なお、本殿の東側には、灘五郷の酒樽も奉献されています。

湊川神社 楠木正成戦没地(国指定史跡)
湊川神社 楠木正成戦没地
本殿の西側奥付近、境内の西北部が楠木正成の自刃の場だと伝えられています。

1336年の湊川の合戦で最後の刻が迫ったのを知った楠木正成は、わずかに残った73騎とともに、この地にあった民家に入り、弟の楠木正季と刺し違えて、その生涯を閉じました。


湊川神社 楠木正成墓碑(国指定史跡)湊川神社 楠木正成墓碑
湊川神社 楠木正成の碑
神社の正門の右手前、境内の東南部に楠木正成の墓碑があります。

楠木正成、楠木正季以下一族の将士を葬った所で、最初は五輪塔が建っていたそうです。
楠木正成を崇敬していた水戸光圀は、遺跡の荒廃を歎いて、家臣の佐々介三郎をこの地に遣わし、1692年に石碑を建てました。

自ら表面に 「嗚呼忠臣楠子之墓」と自書し、裏面には明の朱舜水撰による讃詩を刻したことは有名です。

湊川神社 水戸光圀の像
湊川神社 水戸光圀の像
楠木正成墓碑を見守るように、すぐ側に建っているのが水戸光圀像です。
水戸藩主を辞して西山荘に隠居した後も、「大日本史」の編纂を行いました。

また、楠木正成の墓碑を建立するなどの正成崇敬の功績を讃えて、1955年にこの像が建立されました。

楠木正成の生涯
楠木正成は1294年に大阪府南河内郡千早赤坂を拠点とした豪族の家に生まれたと言われています。彼は御家人・僧侶・農民・商人など多岐にわたる人脈を持ち、広い範囲で力を持っていました。そのような地域でのつながりと地形をうまく利用して千早赤坂で幕府軍とゲリラ戦法で互角に戦ったことは有名です。後醍醐天皇の信任を得て、登用され、建武の中興の際には、河内国の国守に任ぜられました。

南北朝時代の末期、1336年に、後醍醐天皇は楠木正成に対し、足利尊氏の進軍を湊川で阻止するよう命じました。しかし、天皇に協力する武将・土豪が少なくなったことを知り、楠木正成は、勝算が全くないことを承知の上で都を出発しました。桜井(大阪の北東部にあった旧宿場)で、11歳の息子正行にあくまで朝敵を滅ぼすよう促して別れています。楠木正成の手勢はわずか700人で、約50万とも言われる足利尊氏の軍に挑みました。それは、あくまでも天皇に忠誠を誓った楠木正成の死を覚悟した最期の戦いであり、彼の生き様は多くの人の心を動かしました。さらに、それは、鎌倉幕府の滅亡から建武の中興を経て、室町幕府へ移行する時代の流れにおける節目の戦いでもありました。
住所 〒653 神戸市中央区多聞通3-1-1 電話番号 078-371-0001
アクセスメモ JR神戸駅、阪急・阪神・山陽の高速神戸駅、地下鉄大倉山駅下車すぐ。
境内地下に市営駐車場があります。

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菊水聰本店
菊水聰本店 特大瓦せんべい
湊川神社の南側に瓦せんべいのお店、「菊水聰本店」があります。

このお店は、楠木正成の功を讃えて、1872年に初代吉助が瓦型のせんべいに楠木正成の姿を焼き入れて発売し、楠木正成の忠誠心を後世に残そうとしたことに始まります。

その功で、楠木家の家紋にちなんだ「菊水」という姓を賜り、以来130年以上にわたって、お菓子づくり一筋に尽くしてこられました。菊水聰本店

写真は、このお店で一番大きい“特大瓦せんべい”です。
瓦せんべいは神戸で生まれた、神戸の味と言われており、全国的に人気のある、とても美味しいおせんべいです。
電話番号 078-382-0080 営業時間 9:00〜19:00 定休日 無休

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摩耶山天上寺(布袋尊)
摩耶山天上寺 布袋尊
【布袋尊(ほていそん)】

●中国は、後梁時代(906―921)の人で、明州奉化の出身。名を契此(かいし)という禅僧がモデルで、弥勒菩薩の化身と言われ、大きな耳、ぽってりとした太鼓腹が特徴です。
いつも笑顔を絶やさず人々に接していた人で、大きな袋には宝物が一杯入っており信仰の厚い人に与えられたと言います。笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰されています。

●天上寺の本堂を入って直ぐ左手に、布袋尊が祭られています。また、境内では、七福神のお札も販売されています。

摩耶山天上寺 山門 石段 山号寺号
【摩耶山天上寺(まやさんてんじょうじ)】

摩耶山天上寺は、646年、孝徳天皇の勅願により、日本への仏教伝来のため、インドから渡来したと言い伝えられた法道仙人が開祖として建てたお寺です。
ご本尊の「十一面観世音菩薩像」は、お釈迦様が42歳の時に自ら造られ、法道仙人が持参してきたとされる、一寸八分(約6cm)の黄金の仏像です。
これは、秘仏であり、33年毎に行われるご開帳以外は、拝観できません。

摩耶山や大阪湾一円の四州に開けている八州の守護仏とされてきました。最も栄えた頃は約3000人の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと言われ、宗派を越えて皇族、武将なども含め、広く信仰されてきました。

摩耶山天上寺 仏母摩耶夫人尊像
もう一つのご本尊である、「仏母摩耶夫人尊像」は極彩色等身大の仏像であり、金堂内に祀られていますが、弘法大師が唐に留学した際に、中国で女人守護の御仏として、盛んに崇拝されていた梁の武帝自作とされる香木造りの摩耶(マーヤー)夫人像を持ち帰り、当寺に祀ったと伝えられています。
摩耶夫人は、お釈迦様のご生母で、キリスト教のマリア様に相当する“仏母”です。

このため、山号を「仏母摩耶山」と呼び、寺の名を摩耶夫人の昇天された(とうりてん)の名にちなんで
」と号するようになりました。略称として、“摩耶山 天上寺”と呼ばれていますが、女人総守護の本山、
女人の御寺、女人高野とまで謳われ、広く女性の信仰を集めており、日本で最初に安産腹帯を授けた寺としても有名です。
摩耶山天上寺
かつて、天上寺は摩耶山の九合目のあたりにあったのですが、1976年に賽銭泥棒の失火で七堂伽藍が全焼したため、その後、現在地である摩耶山頂に再建されました。
境内への入口には通常見られるような山門がなく、代わりに2本の門柱が建っているだけです。
摩耶山天上寺 石段


摩耶山天上寺 千年杉
石段の手前には千年杉と呼ばれている杉の巨木の傍らに、「孝徳天皇勅願所」という石碑があり、石段を登ったところには「正親町天皇勅願所」と「花山天皇勅願所」という石碑があります。


境内に続く石段の両側は、新緑の紅葉がとてもきれいでした。

摩耶山天上寺 お愛でたガエル 若ガエル景色もきれいですよ
山頂に着くと、境内からは遠くの山並み、街並みを見渡せます。また、「お愛でたガエル」や「若ガエル」などの、かわいい石像もあります。



摩耶山天上寺 金堂
境内には、いくつかの建物が見えますが、最も大きな建物である「金堂」が目を引きます。これは、1985年に再建されたもので、この寺の山号寺号を書いた額は「金堂」の正面上に掲げられており、中には二体のご本尊の他、多くの仏像が祀られています。

摩耶山天上寺 法道仙人像金堂の左側(西側)に、当寺の開基である「法道仙人の石像」が建てられています。
法道仙人は伝説的な僧であり、インドから中国経由で紫雲に乗って日本に渡ってきたとされています。
一説には、インドから仏舎利と宝鉢だけを持って渡来したとされますが、天上寺の縁起によると、お釈迦様の造った十一面観世音菩薩像も持ってきたとされています。
法道仙人はとんでもない神通力を持っていて、食べ物がほしくなったときは、宝鉢を飛ばせば食べ物がそれに乗って戻ってきたというように、誇張された伝説にまでなっているほど、崇められていた高僧だったとようです。

摩耶山天上寺 仏足石金堂の正面右寄りの場所に「仏足石」が置かれています。
これは、お釈迦様の足の裏の形を石に彫ったもので、仏陀がそこに立っている標幟とされており、これを礼拝すれば生身の仏陀を拝むのに等しいと言われています。
この仏足石は1864年の作とされ、形の良さで全国の仏足石の中で屈指の名品の一つとされています。



摩耶山天上寺 小石仏群
一般に寺院には小さい石仏をよく見かけますが、この天上寺には特に多く、境内の至る所に赤い前掛けをかけた石仏が見られます。

金堂の右側には、見事にずらりと並べられた小石仏の群があります。

摩耶山天上寺 蕪村碑
天上寺は昔から俳人に親しまれ、蕪村とその一門の俳人を始め、多くの俳人がしばしば訪れました。また、摩耶詣(まやもうで)が俳句の季題に選ばれたことから、摩耶山が俳句の山として有名になったようです。境内には幾つかの句碑が建てられていますが、その中に『菜の花や月は東に日は西に』という碑があります。これは蕪村の代表的な名句の一つですが、彼が摩耶詣での帰り道に摩耶山の中腹あたりで詠んだ句と言われています。
御詠歌:
ちぬの海わたるもゝ船あけくれにあふぐや摩耶の法(のり)の燈火(ともしび)

軍艦摩耶の碑
軍艦摩耶の碑
摩耶山天上寺の中腹には、「軍艦摩耶の碑」が建てられています。
軍艦“摩耶”は、日本の条約型巡洋艦の第2陣で、妙高型の艦隊旗艦設備強化型という性格で、基本的な性能は妙高型とほぼ同じです。魚雷発射管を上甲板に装備、主砲を対空射撃可能なE型砲塔に変更したため、高角砲を2門減らしています。艦橋構造物が妙高型よりも約1.5倍の大きさとなったため、その重量軽減策として電気溶接を採用し、船体各所に軽合金を使用しています。また、弾火薬庫周辺の装甲は世界の条約型重巡の中では最も分厚いものです。

「摩耶」は1932年川崎神戸造船所で竣工し、日本の参戦後は、南方の多くの作戦に参加。1943年11月ラバウル方面輸送作戦支援中に米爆撃機の攻撃にて損傷。その修理を兼ねて3番砲塔を撤去し、高角砲を2基増備し、防空能力を向上させる改装を受けています。その後、1944年10月、レイテ沖海戦に参加中、米潜水艦デースの魚雷で沈没しました。展示されているモデルは「摩耶」の最終時を再現しています。艦艇保存会のアルミ製船体を使用し、女性的なラインの船体に男性的で重厚な構造物というように軍艦美を極めています。
住所 〒657-01 神戸市灘区摩耶山町2-2 電話番号 078-861-2684
アクセスメモ 阪急六甲駅から市バス40系統で「天上寺前」下車。
※但しバスは7/20〜8/31の毎日と春・秋の日曜・祝日のみ運行し、冬期運休。
車では、表六甲・裏六甲・西六甲ドライブウェイ〜六甲山牧場〜奥摩耶ドライブウェイ〜天上寺

有馬温泉の初夏のイベント
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有馬川の蛍
有馬川の蛍

有馬小学校が「人に優しい有馬温泉・ホタル小学校」をめざして十数年がたちます。

1991年より"有馬にホタルを呼び戻そう"と、神戸市環境局リサイクル推進課係、地元自治会、有馬温泉観光協会と連携して、ホタルの飼育・放流活動を飼育栽培委員会中心に全校生徒で行っています。

今年も6月初旬頃から有馬川でホタルの群舞をお楽しみいただけることでしょう。有馬へお越しの際には、ぜひ、夜のホタル鑑賞にお出かけ下さい。

有馬川の蛍

◆ホタルの種類:
世界中で約2000種類、国内で約40種類が生息していますが、日本でよく見かけるのは、主にゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルの3種類です。

◆鑑賞のチャンス:
ゲンジボタルの場合、どんよりと曇った、生暖かい日によく見られます。気温が低いと活動しません。時間帯は午後8〜9時、深夜 午前0〜1時、3〜4時くらいです。

◆鑑賞マナー:
ホタルは光を嫌います。車のライトなどの照明は消してください。
●騒がないで、静かに鑑賞しましょう。
●人を恐れずに近くまで飛んできますが、捕まえたり、持ち帰ったりしないで下さい。
●タバコの吸殻やゴミを捨てないようにしましょう。

ホタルの一生
8月上旬〜中旬にかけて、産卵します。1匹のメスから500〜1000個の卵が生まれます。卵から孵ったばかりのホタルの幼虫は、体調1mm以下なので、肉眼では見つけるのが難しく、虫眼鏡が必要です。幼虫は、小川で次第に大きくなりますが、この時期のエサは、淡水産の小巻貝であるカワニナです。この貝は、野菜屑や皮果物を常食としており、高さ3cmほどに育ちますが、ホタルの幼虫が好んで食べるのは、体長3mm程のカワニナの稚貝です。

ホタルの幼虫は、6〜7回脱皮し、体長2〜3cmの終盤幼虫になると、体力も付いてきます。人工飼育の場合は、この段階で小川に放流します。その後、陸上生活に移行し、土中でサナギになってから、約40日間で成虫になります。有馬に場合、土中から這い出してきたホタルが飛び交うのは、通常6月上旬〜中旬です。

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沙羅の花と一弦琴の鑑賞会
沙羅の花と一弦琴の鑑賞会
念仏寺の沙羅双樹の花を背に、ご住職の法話で愉しんでいただいた後、須磨琴保存会の先生方の演奏をお聴きいただきます。
また、開演前には沙羅の茶会として、お茶と沙羅の花をイメージした茶菓子を召し上がっていただきます。
沙羅の花と一弦琴の鑑賞会
参加募集人数:各会とも100名 ※先着順 参加料:1,500円
◆参加申し込み方法:
<代表者の氏名、住所、電話番号、参加人数、ご希望の鑑賞会(第2希望まで)>を往復はがきにご記入の上、下記宛てに郵送ください。

◆申し込み期限:6月12日(木)必着
宛先 〒651-1401
神戸市北区有馬町828有馬温泉総合案内所
「沙羅の花と一弦琴の鑑賞会」宛 
TEL 078-904-0708

開催予定:6月19日(土)・20日(日)・21日(月)の3日間に4回の公演があります。
  開場 開演
1回目 09:00 10:00
2回目 11:00 12:00
3回目 13:00 14:00
4回目 15:00 16:00


沙羅の花の言われ 一弦琴(いちげんきん)
蛤石 雀石
◆沙羅の花の言われ
平家物語の冒頭の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で知られる沙羅の木は、夏ツバキの別名で、6月中旬〜下旬が花の見頃です。朝咲いて夕方には散ってしまう所から、世の無常を象徴していると言われます。

念仏寺の庭では、樹齢250年の沙羅の木を中央にして、二つの石が相対座しています。向かって右を「ハマグリ石」、左を「スズメ石」と呼び、中国のことわざ、「雀は海に入り、蛤となる」を表現したものと言われています。

突風にあおられた沙羅の花がポトリと、この石の上に落ち、転がった後、苔の上で静かに休むという情景は、正に静寂そのものです。沙羅双樹は、お釈迦さまが入定された時、いっせいに花開き、その死を悲しんだと言われ、仏教とゆかりの深い銘木です。
ある書物には、「沙羅の花は一日だけの生命を悲しんでいるのではなく、与えられた一日だけの生命を精一杯咲き尽くしている」と記されています。

一弦琴(いちげんきん)

◆一弦琴(いちげんきん)
一絃琴は、一枚の板の上に一本の絃を張っただけの極めて簡単素朴な楽器で、板琴、一つ緒の琴と呼ばれることもあります。
一絃琴の歴史は、平安時代初期に、中納言、在原行平が勅勘を被って須磨の地に流された時、渚で拾った板切れに冠の緒を張って琴を作り、岸辺の葦の茎を爪にして、その琴を弾じながら、はるか都を偲び、自らの寂寥を慰めたのが始まりと伝えられています。このため、古くから「須磨琴」と呼び慣らわされてきました。

江戸時代に河内国の高僧、覚峰律師によって復興され、名人、真鍋豊平の活躍もあって、幕末から明治前半にかけては、高貴風雅な音楽として、文人墨客の間に愛好されていました。
しかし、その後、西洋音楽の流行に圧されて衰微の一途をたどり、戦後は、一絃琴を演奏できる人がほとんどいないという状態になってしまいました。しかし、現在では須磨琴保存会の努力により、1976年には兵庫県重要無形文化財の指定を受けるまでになっています。


有馬温泉の旅館 龍泉閣スタッフ
今回の有馬ナビでは初夏の有馬温泉のイベント、見所などをご紹介しました。歴史的、文化的にも有馬・神戸地区はとても興味深い地域です。これからも、神戸七福神や神戸港など、各時代を代表する史跡を有馬ナビでご紹介して参ります。どうぞご期待下さい。(2004/6/1)

※このページは2004年6月に発行されたものです。
最新の有馬温泉と周辺観光地の情報は『龍泉閣日記』をご覧ください。

有馬温泉の旅館 龍泉閣日記

兵庫のホテル・旅館案内  

注)営業時間や料金などの情報は、発行された時点のものです。
詳しい情報は各施設にお問い合わせください。リンク、もしくはTEL番号をご参照ください。
貸切露天家族風呂
神戸有馬温泉の旅館 元湯龍泉閣

こうべありまおんせん    もとゆ りゅうせんかく
【 http://www.ryuusenkaku.jp/ 】
〒651-1401 兵庫県神戸市北区有馬町ウツギ谷1663
TEL:078-904-0901  FAX:078-903-0099
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ryuusen@skyblue.ocn.ne.jp