新年明けましておめでとうございます。
お蔭様で、有馬ナビも3回目のお正月を迎えることが出来ました。今後とも、どうぞ宜しくお願いいたします。

有馬ナビ新年号では、今年のNHK大河ドラマ『義経』にちなんで、源平合戦の舞台として有名な神戸市兵庫区の名所旧跡を2回に分けてご案内します。
今回は、その前編として、「清盛と兵庫・福原の都」についてご紹介し、次回は、後編として、「義経と一ノ谷の合戦」についてご紹介します。また、歴史上の著名人も前後編に分けて、ご紹介します。
新年のご旅行には、清盛や義経らが活躍した中世のロマンを偲ぶというプランは、如何でしょうか。ぜひ神戸〜有馬温泉にお越し下さい。



福原京の観光スポット


平家物語の著名人


平家物語のトリビア


龍泉閣の新しい浴衣のご紹介




■兵庫・福原の都と平家
"祇園精舎の鐘の声 〜 "で始まる『平家物語』は、滅びゆく平家一門の姿を描いた長編歴史物語です。そこには合戦の舞台などさまざまな場所が登場しますが、平家が絶頂期と滅亡の兆しの両極端を味わうのが、"福原"と呼ばれていた現在の神戸市とその周辺の広範な地域で、「雪の御所」に代表される清盛の別荘や平家一門の別邸がある景勝の地です。

現在の神戸市とその周辺は摂津・播磨の両国にまたがり、当時の首都である京都と瀬戸内海方面を結ぶ海上交通の重要な拠点となっていました。平安時代末期、その利点に目を付けた清盛は、宋との大陸貿易に注目し、その拠点として、兵庫の港(大輪田の泊:おおわだのとまり)を改修し、1174年には遠浅の干潟を埋立て、経ヶ島という人工島を築き、当時、既に西国への陸海路の要衝だった神戸がさらに発展する足掛かりを築きました。しかし、頼朝が伊豆で挙兵したことから、清盛は遷都からわずか半年で再び京都へ舞い戻り、その3ヶ月後に熱病に冒されて、64歳の生涯を閉じました。

JR兵庫駅の東の運河に大和田の水門がありますが、この辺りがかつての大輪田の泊と思われます。海に開かれた地形を利用して海運の都を作ろうとした清盛の夢は、明治時代まで待たなければなりませんでした。また、難工事の末に完成した経ヶ島は、800年の時を超えてポートアイランドや六甲アイランドという巨大な人工島としてよみがえったのです。
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■福原京の観光スポット <50音順>
◇荒田八幡神社(あらたはちまん・じんじゃ)
荒田八幡神社は、安徳天皇の行宮となった平頼盛邸と伝えられています。神社は少し高台になっており、境内には「史跡安徳天皇行在所址」(側面には「平頼盛山荘址」)、および、「福原遷都八百年記念之碑」の石碑があります。
この辺りが平頼盛邸と伝えられるのは、『平家物語』や『高倉院厳島御幸記』の中に出てくる記事によっています。
荒田は清盛の邸宅があったとされる平野の西南にあり、現在の兵庫区荒田町です。安徳天皇の行在所といっても、安徳天皇が頼盛邸に滞在したのは、福原に来た最初の1日(1180年6月3日)だけと言われています。
また、福原遷都八百年記念之碑は、1980年、福原遷都800周年を記念して、神戸史談会によって建立されました。
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◇厳島神社(いつくしま・じんじゃ)
永沢町には、清盛が治水のために建立した渦輪弁天があります。
兵庫七弁天の一つで、後に、厳島神社外弁天に含祀されました。
外弁天と呼ばれるのは兵庫津の域外にあったからだと言われています。境内に古くから淡島神社が合祀されており、針塚があって毎年2月8日には盛大な針供養が行なわれます。
淡嶋神社は医薬の道を始められた祖神で、病気平癒のご神徳があると言われ、特に婦人の守り神として女性の崇敬篤いお社です。

上沢通、下沢通の付近は、昔は、渦輪(うずわ)と呼ばれ、湊川の旧川筋で川の流れの他、地中からも水が湧き出して渕のようになっていたと言われています。
後に、湊川の川筋が変わっても一帯は湿地となって残ったので、沢の名がここから生まれました。
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◇清盛塚十三重塔・清盛像
昔、切戸町には、清盛が魚族のために設けたと伝えられる「魚の御堂(称名寺)」がありました。
その町の南端に、十三重塔(じゅうみえとう)がそびえる「清盛塚」があります。
高さ8.5mの十三重の塔は、1286年に鎌倉幕府執権の北条貞時が清盛の遺骨が納められたとされる能福寺の寺領内の八棟寺の跡近くに、菩提を弔うために建立したと伝えられており、県指定の重要文化財です。なお、十三重塔 では全国で三番目の大きさを誇るそうです。

1181年、京都で亡くなった清盛の遺骨を円実法眼が持ち帰って"山田"の法華堂に納めたと『吾妻鑑』に述べられています。
この山田を和田の誤記として、この塚が清盛の墓だとする説もありましたが、神戸市電の道路拡張工事のため、塔を解体・調査したところ、この塚は墳墓ではなく、供養塔であることが判明、1923年末に現在地へ移転されました。

1972年、神戸開港百年祭を記念し、開港の祖である清盛の功績を顕彰するため、柳原義達作の「清盛像」が塚の脇に建てられました。
その隣に清盛の甥の平経正を祀っている「琵琶塚」があり、さらに、文化文政期(19世紀前期)の俳人・子日庵(ねのひあん)一草の句碑が並んでいます。
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◇清盛橋
兵庫運河に架かる西端の高松橋から数えて5番目の橋という意味で、もとは「第5橋」と呼ばれていました。

1987年末に橋の拡張のための架け替え工事が完成した際に、市民からの要望で付近の清盛塚にちなんで「清盛橋」と改名されました。

欄干には銅板による平家物語絵巻が飾られています。
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◇妓王・妓女の墓
築島寺(つきしまでら)の境内には、松王丸の供養塔と並んで、小さな五輪塔がありますが、これは、京都嵯峨野の祇王寺で尼となった祇王と祇女の墓と伝えられています。
寺伝によると、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、清盛の愛妾であった妓王と妓女は、平家ゆかりの能福寺の寺領内の八棟寺(清盛塚の付近)に住持して平家一門の菩提を弔ったとされています。
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◇熊野神社
熊野町の熊野神社は、清盛が福原遷都にあたり王城鎮護のため、後白河法皇の崇敬の篤かった紀州熊野権現を勧請して祀ったと言われています。祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)です。熊野神社と呼ぶのは、伊弉諾命、伊弉冊命の2神が熊野三社(熊野坐神社・熊野速玉神社・熊野那智神社)の祭神だからです。その後、この地の人々が産土神として崇拝し、縁結び、福徳延命、事業創設の祖神とし、今でも「夢野の権現さん」として有名です。なお、1918年、この付近の地下1mからカメに入った40個近い貝の腕輪が発見されています。
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◇恵林寺(けいりんじ)
錦江省文禅師(きんこうしょうぶんぜんじ)が開基した臨済宗の寺で、本尊は十一面観世音菩薩です。
福原西国33か所の第28番札所で、境内には、清盛が経ヶ島を造ったとき、困難や水難を克服して無事に島ができるように祈って建てられた弁財天の社があり、兵庫津七弁天の一つ「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれています。
この波除弁天は、ちょうど経ヶ島の北端にあり、かつて、この地は港への船の出入りでにぎわっていたと思われます。
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◇金光寺(こんこうじ)
1173年、隆善法師の開基で、本尊の薬師如来の金色のまばゆい光にちなんで金光寺と名づけられました。
ある夜、清盛の枕元に童子が現れ、「兵庫の海中に霊仏があるので、探し出すように」とのお告げがありました。
そこで、さっそく兵庫大輪田の海に網を下したところ、黄金の薬師尊が出現したので、これを本尊として安置したという伝えもあります。
海中出現と伝えられる本尊は、薬師如来の胎内に納められています。
一般には、「兵庫の薬師さん」として知られ、戦前は1月8日の縁日(初薬師)には境内に店が並び、参詣者で賑わいました。
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◇七宮神社(しちのみや・じんじゃ)
『西摂大観』によれば、羽坂通には平安時代に小さな山があり、塩槌山と呼ばれていましたが、清盛がこの山を崩し、その土で経ケ島を築いた跡の小高く残った丘陵を羽坂といい、先端を針ケ崎と呼んだとされています。
塩槌山の崖に大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られており、この神が怒って風波を起こすということから、現在の国道2号線が和田岬方面に分岐する場所に、平清盛が兵庫の築島工事の無事終了を感謝し、社殿を建立したと言われています。
それ以後、この神社は兵庫の港を守ってきました。
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◇築島寺(つきしまでら):松王丸入海の碑・墓
兵庫区島上町は、1170年代前半に清盛が海を埋め立てて築かせた「経ケ島」の寄洲の上にできた町です。
島上町にある築島寺(つきしまでら:正式名称は、来迎寺)には、境内に「松王丸の墓」と「妓王・妓女の墓」があります。寺伝によると、清盛が経ヶ島を築くとき、難工事だったので、竜神の怒りを鎮めるために、当時17歳の松王丸が人柱になったと言います。
この少年は、香川の城主、田井民部の嫡男で清盛の侍童であったとされますが、多くの人々の身代わりになり、そのお陰で経ケ島築造の難工事が完遂したというので、その菩提を弔うために築島寺が建立されたと言います。

しかし、「平家物語」によると、清盛が1161年2月から経ケ島を築き始めたが、8月に大風が吹き、大波で工事中の島が流され、翌年3月に再び築き始めたが失敗する。
そこで、人柱を立てて工事の完成を神仏に願おうと提案されたが、清盛が罪業だと反対し、代わりに、石の面に経文を書かせ、海に沈めて島を築いたので、経ケ島と呼ばれるようになったと延べられています。
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◇能福寺:平相国廟・兵庫大仏
兵庫区北逆瀬川町にある能福寺は、最澄の創建とされています。
平家一門の帰依により隆盛し、1168年に清盛 が出家をした際に剃髪した寺だとされています。
初代住職の円実法眼が清盛の遺言により遺骨をこの地に持って来て法華堂(所在地不明)に納めたとも、寺領内の八棟寺に墓所として平相国廟を造立したとも言われています。
その後、1341年に兵火により全焼し、平相国廟の位置も不明です。1599年、明智光秀の家臣、長盛法印が堂宇を再建しました。
なお、「相国」というのは、太政大臣を唐風に呼んだもので、平相国(へいしょうこく)は、清盛の別称です。

この寺に現在ある「平相国廟」は、1980年、清盛の八百年忌を記念して作られたものです。
清盛塚の塔を模した「十三重石塔」を中心に、向かって右側に円実法眼の供養塔である宝篋印塔、左側には平教盛の子息で円実法印の弟子となった忠快の供養塔である九重石塔が据えられていますが、円実法眼と忠快の供養塔は、ともに鎌倉時代の作と言われています。

また、能福寺には、1891年に豪商の南条莊兵衛によって建立された、日本三大仏の一つである「兵庫大仏」があります。
初代の大仏は第二次大戦中の1944年に解体、金属回収に供出され、翌1945年3月には神戸大空襲により伽藍も全焼しました。
現在の「兵庫大仏」は、多数の檀徒市民や企業の協賛により47年ぶりに再建された二代目です。

1991年の開眼法要は、比叡山天台座主を導師として、奈良東大寺管長と鎌倉大仏貫主の臨席の下で盛大に挙行されました。
大仏の高さは11m、台座の高さは7m、重さ約60トンで、大仏の台座の建物は「ビルシャナ殿」と呼ばれ、ここに札所本尊の「十一面観世音菩薩立像」が安置されています。
この菩薩像は9世紀初めの作と言われ、重要文化財に指定されています。
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◇氷室神社(ひむろ・じんじゃ)

氷室神社は、夢野の山の斜面の奥まった一角にあり、仁徳天皇が祀られています。
また、平清盛が厳島神社から勧請したという弁財天も祀られています。夢野弁天とも言われ、兵庫七弁天の一つです。
神社付近には、平安時代の末期、清盛の異母弟の平教盛(のりもり)の邸宅、および、教盛の次男で平家一門きっての剛勇であった教経(のりつね)の陣所もあったと伝えられています。
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◇琵琶塚

「琵琶塚」は、元来、清盛塚と小道を挟んで北西の位置にあった前方後円式の古墳でしたが、琵琶を連想させるような形から「琵琶塚」と呼ばれていました。
その後、平家物語にも登場する琵琶の名手である、清盛の甥の平経正(たいらのつねまさ)に結び付けて、琵琶塚は、「経正の塚」とも呼ばれるようになりました。
1902年、塚の周辺に大石を積んだ上に、「琵琶塚」と刻まれた大きな自然石が建てられ、さらに、それが1923年に清盛塚の隣に移されました。
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◇宝地院(ほうちいん)

荒田町三丁目にある薬王山宝地院は、安徳天皇の菩提を弔うため1279年に建立されました。現在は、保育園も境内にあります。
清盛の弟、池の大納言頼盛の山荘は、この付近で広大な地域を占めていました。福原京に遷都の際に、この山荘が安徳天皇の行在所となりました。宝地院および、その北東に隣接する荒田八幡神社が頼盛の別荘地跡とされています。元来、八幡社は、宝地院の寺域内に祀られていましたが、明治初年の神仏分離により、現在地に祀られるようになりました。
宝地院には、二位尼時子に抱かれて入水した、まだ幼い安徳天皇の菩提を弔うために位牌が安置されています。悲劇の幼帝の菩提を弔う寺院は多く、また、安徳帝の陵墓は、関門海峡の赤間神宮にありますが、その他に帝の陵墓が全国で20数基あると言われます。
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◇湊川上温泉 (平家の湯)

天王谷の湊川上(みなとかわかみ)温泉は、神戸の名物の一つで、皮膚病・神経痛などに効用があるとされています。
平安時代の古記に雪見御所から北の「湯屋」に清盛が行ったとあるのは、この湯だとする説があります。自邸から100mほど離れた、この温泉まで牛車(ぎっしゃ)で入湯に来たそうです。
1180年、福原遷都の頃の中山忠親の日記『山槐記』には、「本内裏より一丁のところに湯屋あり」と記されています。これは、現在の湊川上温泉付近であり、たびたび平家一門が通っていたのではないかと考えられています。

1596年、慶長の大地震の際には、太閤秀吉が正直屋寿閑に湯坪取立を許可する朱印状を与えて、有馬温泉とともに、この温泉も復興させました。今では、清盛の時代の姿は留めていませんが、泉源は同じであったと考えられます。

湊川上温泉は、市バスE.F系統の「平野」バス停から徒歩5分のところで、天王谷川沿いに、湊山温泉と天王温泉の2軒の温泉銭湯が並んで建っています。
その昔、清盛や秀吉も湯治した温泉だと言われており、800年以上もこんこんと涌き続けています。
源泉は無色、透明で炭酸ガスが細かく泡立ち清涼味があります。また、天王温泉は昔風の銭湯で、まるで東京の銭湯のような寺社建築で、脱衣所も天井が高く、レトロな雰囲気が漂います。
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◇薬仙寺:萱の御所跡碑
薬仙寺(兵庫区今出在家町)は、746年に行基が開山したと伝えられる時宗の寺です。
境内には「萱の御所跡」の碑があります。「萱の御所(かやのごしょ)」とは清盛の邸宅で、清盛がここに後白河法皇を幽閉したことから「牢の御所」とも言われました。
この石碑は、もとは寺の北、新川運河の地にありましたが、運河の拡張工事によって水中に没してしまったため、薬仙寺の境内に再建されました。
なお、実際の「萱の御所」の位置については、夢野にあった平教盛邸とする説が有力です。
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◇雪見御所旧跡


石井川と天王谷川の合流点にある雪御所町は、清盛の雪見御所跡と言われ、一般にはここが清盛の邸宅と考えられています。
町内の湊山小学校の校庭には、1908年に礎石や土器などが多く発掘されたことを記念して「雪見御所旧跡」の記念碑が建てられ、今も残っています。1167年、清盛が太政大臣を辞して出家し、平野の地に退隠してから14年間この地で政治の陣頭指揮を執っていたのです。
当時の書物や日記によれば「雪見御所」、または、「雪ノ御所」と表現されています。

清盛には四季折々の風情を楽しむ別業(別荘)が沢山あり、春は花見の「岡の御所」、夏は船見の「浦の御所」、秋は月見の「浜の御所」、冬は雪見の「原の御所」、その他、泉殿(でん)、松蔭殿、馬場殿、二階の桟敷殿など平家一門の館も周辺に立ち並んでいました。
その中でも本陣というべき中心地が禅門家、つまり「雪見御所」でした。
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■「平家物語の著名人」<50音順>
建礼門院徳子
けんれいもんいん・とくこ(1155-1123)
清盛の次女です。高倉天皇の中宮として安徳天皇を産み、「国母」となりました。
帝の死により「建礼門院」の院号を宣下されました。源氏の軍勢が上洛を果たしたため、安徳帝を伴って一門とともに都を落ち、壇ノ浦で安徳帝とともに入水しましたが、彼女だけ助けられて京に送られました。
その後、まもなく出家し、大原寂光院で余生を送りました。
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後白河法皇
ごしらかわ・ほうおう(1227〜1192)
鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、皇位継承順位は低かったのですが、激しい継承争いの中で幸運にも即位します。まもなく長子・二条天皇に譲位して院政を開始します。
以降30年以上にわたって、その死まで朝廷政治の中心にあり続けました。平家・源氏という武家勢力が台頭する中で、自らは武力を持たない朝廷として、いかに生き延びるかということに智略の全てを注ぎ込んだと言えます。
掌の中のゲームの持ち駒のように、ある時は清盛に、次いで義仲や義経に、さらに頼朝に接近しては切り捨てました。一方で信仰に厚く、遊びごとを好み、今様(当時の流行歌)を集成して「梁塵秘抄」を編纂した他、朝儀の復興にも努め、「年中行事絵巻」を作らせました。
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平敦盛
たいらの・あつもり(1169〜1184)
平経盛の子で、兄に経正・経俊がいます。従五位下で、任官がなく「無官大夫」と称されました。
敦盛の最期は『平家物語』により広く知られています。一ノ谷の合戦では、乱戦の最中に友軍から離れてしまい、体勢を立て直そうと沖合いに浮かぶ友軍の船団に戻ろうとします。
そこを剛勇で知られた源氏軍の熊谷直実によって「敵に後ろを見せるのか」と引き止められ、敦盛は、はたと沖合いから引き返し直実と立ち会います。
しかし、平家の公達育ちの敦盛が歴戦の勇士である直実にかなうわけもなく、組み伏せられます。

この平氏の武者の頚を刎ねようとした直実は、敦盛が我が子と同じ年頃であり、敦盛の顔があまりに端整なのに驚き、その命を助けようと思いましたが、後方から源氏軍が駆け付けて来るのを見て、涙ながらに敦盛の頚を刎ねました。敦盛は横笛の名手であったと伝えられ、一ノ谷の合戦にも腰に笛の名器「小枝」を指していました。この笛は、祖父の平忠盛が鳥羽上皇から賜ったもので、忠盛から父の経盛に伝わり、そして敦盛に伝えられたものでした。
この敦盛の最期は、謡曲や浄瑠璃となり、いつまでも人々の心の中に刻まれるようになります。敦盛は、公家化した武士である平家の象徴とも言える存在でした。
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平清盛
たいらの・きよもり(1118〜1181)
平忠盛の嫡男ですが、白河上皇が実父だという説もあります。六波羅殿・六波羅入道とも称します。
1156年の保元の乱では後白河天皇方として一族を率いて活躍し、その功によって播磨守となります。
1159年平治の乱で源義朝(頼朝・義経の父)を破り、確固とした地位を獲得し、平家一門は高位高官に就きます。
1160年、武士として初めて参議となり、1167年には従一位太政大臣となります。
翌1168年に出家し、摂津国の福原に引退した後も、平家政権の中核として権力を掌握し続けます。娘の徳子を高倉天皇の中宮とするなど、摂関家を始めとして、朝廷内の有力貴族との婚姻政策を進めました。

1179年に後白河法皇を幽閉し、院政を停止させました。
翌1180年、外孫の安徳天皇(徳子の子)を即位させて独裁政権を樹立しましたが、以仁王(もちひとおう)が挙兵したことに衝撃を受け、福原遷都を強行します。
以仁王の令旨を得た源頼朝ら反平家勢力が各地で挙兵する中で病死しました。従来の清盛の独裁者イメージだけでなく、「ロマンあふれる早すぎた改革者」という一面もありました。
日宋貿易で国を豊かにしようという貿易立国を意図した、福原への遷都も清盛の改革の一つでした。
しかし、思いだけが強く、根回しを怠ったため、朝廷や仏徒などの反感を買いました。そして幼い義経は母の常盤御前とともに清盛と一時を過ごし、奇しくも清盛からロマンの遺伝子を誰よりも強く引き継ぎました。
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平重衡
たいらの・しげひら(1157〜85)
清盛の五男で、母は平時子です。1180年5月、以仁王・源頼政を討ち、12月には反平氏勢力の拠点である興福寺・東大寺など南都攻撃の総大将となり、大仏殿を焼亡させました。翌1181年3月、墨俣川の戦で源行家を破ります。
平家の都落ち後も、1183年閏10月の水島合戦、11月の室山合戦で源氏側を撃破します。
しかし、翌年2月、一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られます。鎌倉では頼朝に丁重に遇され、潔い態度で頼朝とも対等に渡り合います。

しかし、大仏殿の焼き討ちを恨む南都衆徒の要求により南都へ連行されます。
その途次、正妻の大納言典侍(藤原輔子)と再会します。大納言典侍は、日野に住む姉のもとに身を寄せ、重衡が通るのを待っていました。
そして1185年、奈良の木津の河畔で処刑され、首は南都衆徒に渡され、奈良坂にさらされました。
その骸と首は、大納言典侍がもらい受けて、日野で荼毘に付され、火葬地には塚を築き、骨は高野山へ納められました。
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平重盛
たいらの・しげもり(1138〜1179)
平清盛の長男です。平家物語では父の清盛に対し、温厚柔和で冷静沈着な理想の男性像として描かれています。
彼は、文武両道に長けており、「清盛が死んでも、重盛さえいれば平家は安泰」と言われるほど高い評価を得ていました。
東山の地に48間の精舎を設け、48の灯篭を掲げて、念仏三昧に入ったことから「灯篭大臣」とも呼ばれました。
しかし、重盛は病に倒れ、41歳という若さで死去しました。父の後を継いで、平家一門の中心人物となるはずの重盛の突然の死は、実質的な平氏支配の崩壊を意味していました。
その2年後には父清盛が、さらに4年後には壇ノ浦で平家が滅亡します。
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平忠度
たいらの・ただのり(1144〜1184)
平忠盛の六男(七男説あり)で、清盛の異母弟です。官位は、薩摩守を叙任し、藤原俊成に師事し、優れた歌人でした。また、紀州熊野で生まれ育ったと言われ、武将としても優れた人物で、平氏の軍事行動には欠かせない存在でした。
1180年の「富士川合戦」では、駿河の橘遠茂らと合流出来ず、源氏軍に大敗しますが、翌1181年に総大将・重衡の下で行われた「墨俣川合戦」では、見事な勝利を収めます。
1183年、北陸方面で、木曽義仲による反平氏の軍事行動が活発化すると、平氏軍4万人で鎮圧に向かます。加賀国を平定後に新宮行家の部隊と衝突した所に、義仲が救援に駆け付けたために敗北し、京へ敗走します。

同年7月、遂に平氏は西国目指して都落ちすることになりますが、忠度は師の俊成を訪ねてこれまでの御礼を述べ上で、戦乱の世が終わり、俊成の手により勅撰和歌集が選ばれるようになれば、自分の歌を選んで欲しいと懇願し、俊成に自らの歌集を託した。
1184年の一ノ谷の合戦では源氏軍の攻撃が最も激しいと予想された西方方面の大将軍を務め、平氏軍陣地の防衛を固めた上で源氏軍を待ち構えていたが、義経の奇襲攻撃で平氏軍の戦線は崩壊し、忠度は源氏軍数百騎に取り囲まれつつ海上の友船を目指しますが、源氏軍の武将、岡部忠純の主従に見つかり、奮戦の後、従容として最期を迎えたと言います。

後に藤原俊成により編纂された勅撰和歌集である『千載和歌集』には、「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」という忠度の和歌があります。
俊成は弟子との約束を守って、託された和歌から一首を選び、「詠み人知らず」として遺したのです。
こうして文武に優れた平忠度の名は彼の歌とともに、後世に残りました。忠度の他の歌も『群書類従』に『平忠度朝臣集』として現在に伝えられています。
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平経俊
たいらの・つねとし(1166〜1184)
清盛の弟の経盛の次男で、敦盛の兄に当り、官位は若狭守でした。
一の谷の合戦 においては、弱冠18歳で出陣し、鵯越(ひよどりごえ)を守備していましたが、義経の奇襲に遭い、敗走し、長田の森を経て、西出の浜まで落ち延びて来たところを、源氏軍の総大将、源範頼 の郎党、名和太郎に追い迫られ組み打ちとなりますが、武運つたなく討ち死にしてしまいます。
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平経正
たいらの・つねまさ(1144〜1184)
清盛の異母弟である平経盛の嫡子で、敦盛の兄に当たります。
官位は、但馬守でした。幼少時には仁和寺の覚性法親王に稚児として出仕し、元服後に法親王から琵琶の名器「青山」を与えられます。この「青山」は、仁明天皇の御代に唐から渡来した琵琶です。唐の琵琶博士である廉妾夫が亡霊となって出現し、村上天皇に「青山」を用いて秘曲を授けたという伝説を持つ名器でした。

義仲が都に迫り、平家一門が再起を期して西国へ落ちる際に、経正は僅かな手勢を率いて仁和寺を訪れ、「青山」を返却したと言います。
1184年、一ノ谷の合戦において、海岸線に布陣し源氏軍と戦うものの形勢不利と見て、沖合いの味方の軍船へ向かう途中で、河越重房によって討ち取られます。和歌を愛し、琵琶の当代一の名手として高名であった経正は、戦場よりも花鳥風月が似合う、平家の貴公子の一人でした。
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平経盛
たいらの・つねもり(1125〜1185)
忠盛の子で、清盛の異母弟です。子供は6人いたとされますが、実子として確認できるのは、経正・経俊・敦盛の3人のみです。
1178年に経盛一行が道中で、近衛家の名門である藤原基通の一行と出くわし、お互いの家中の者同士が道の通行を巡って喧嘩へと発展し、経盛が後に基通邸へ謝罪に訪れたという逸話があります。
1179年11月の清盛による政変劇以後は、それまでの若狭国に加えて但馬国を知行国として任されています。
平氏政権の樹立後は、「追捕使」職に就いたりして治安に目を光らせ、平氏一門の長老として、新政権の安定に尽力しています。

1184年の一ノ谷の合戦では、息子たち(経正・経俊・敦盛)が戦場に命を落とすことになり、老いた身で一人あとに残されます。
1185年の壇ノ浦の合戦では、平氏軍は死力を尽くして戦いますが、勢いに乗る義経の戦略の前に敗色が濃くなります。経盛も弟の教盛とともに奮戦し、体には矢疵を何箇所も受けていました。
平氏軍の敗北を確認した経盛は、戦場を離れ、一旦陸に上がり出家してから再び海上に戻り入水したとも、あるいは碇を身につけて教盛と腕を組み合って入水したとも伝えられています。
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平教経
たいらの・のりつね(1160〜1185)
清盛の弟である平教盛の子で、母は藤原資憲の娘です。
本名は国盛で、1179年に能登守に叙任しました。1181年の北陸道追討軍の副将軍となります。1183年に平氏一門と共に西国に逃れます。
『吾妻鏡』によると1184年の一ノ谷の合戦で安田義定の軍に討たれたとありますが、別人だったようで、『醍醐雑事記』などでは、壇ノ浦の戦いで自害したとされています。『平家物語』では、平氏一門きっての剛勇の士として描かれています。
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平教盛
たいらの・のりもり (1128〜1185)
平忠盛の第三子で、清盛の弟です。清盛の六波羅邸の門脇に邸宅を構えていたので、通称は「門脇殿」でした。
平治の乱の功により越中守、正三位権中納言となります。源行家を播磨で破りますが、1185年の壇ノ浦の戦いで、源氏軍に破れ、兄の平経盛とともに海中に身を投じたと伝えられています。
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平頼盛
たいらの・よりもり(1131〜1186)
平忠盛の子で、清盛の異母弟です。六波羅の池殿に住んでいたので、池大納言・池殿とも呼ばれました。
母の池禅尼がまだ12歳の頼朝の命乞いをした結果、伊豆へ島流しとなり、命を救われました。
そのため、平家一門が西国に都落ちした際には「忘れ物を取りに行く」と言って一門から離脱して八条女院(鳥羽天皇の皇女)にすがって都に留まりました。「池殿の侍共に向かって弓を引くな」という頼朝の指令が出ていることを知った上での行動だったようです。

後に鎌倉に招かれ、平家滅亡後も一家は頼朝の厚遇を受け、所領を安堵されて、八条女院の死後の広大な八条院領を管理して、平家ではただ一家だけが後々まで栄えました。

しかし、一門に対するその背信行為がやがて彼をさいなむことになり、複雑な思いに悩み、出家して名を重蓮(じゅうれん)と改めます。そして1186年、55歳でこの世を去りました。
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■平家物語のトリビア
☆提灯に釣り鐘
義経の家来であった武蔵坊弁慶には、数々の怪力エピソードが伝えられています。一ノ谷の合戦のとき、弁慶はある寺の重さ20貫(約80kg)という釣り鐘をはずして長刀の先にぶら下げ、陣鐘として使用したそうです。夜になると、釣り鐘の先に提灯を吊るして闊歩したとも言われ、その釣り鐘の模型が須磨寺の宝物館(参観無料)に展示されています。
その解説には、物事が釣り合わない場合に使われる「提灯に釣り鐘」ということわざの起源だと記されています。ことわざ事典で「提灯に釣り鐘」を引くと「形は似ているが、大きさも重さも異なること」とあります。
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☆忠度とタダ乗り
平家側で後世の庶民の会話にまで名を残しているのは、清盛の弟の平忠度です。平家一門が都落ちしたとき、忠度は単騎で京に引き返し、和歌の師であった藤原俊成を訪ね、自作の歌集を託したというエピソードが有名ですが、平忠度の官位は、薩摩守でした。
かつて、交通機関での無賃乗車のことを一般に「薩摩守」と呼んでいましたが、これは薩摩守"忠度"と「タダ乗り」とを掛けた洒落です。それほど、『平家物語』の登場人物が一般庶民にまで親しまれていたと言えるでしょう。
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■ 龍泉閣の新しい浴衣のご紹介
有馬ナビ長月号でアンケートにご応募いただきました「龍泉閣の新しい浴衣」が完成しました。


男性用は、青色の青海波(セイガイハ)、女性用は、ピンクの撫子(ナデシコ)をベースに、龍泉閣のロゴマークのタツノオトシゴをあしらっています。
浴衣と一緒に「羽織」も新しくなりました。羽織は、リバーシブルになっています。スカイブルーとピンクのかわいらしい生地です。
また、浴衣の「帯」もリバーシブルです。紺色とエンジ色になっています。





「お子様用の浴衣」も新しくなりました。デザインは、大人の方とご一緒で、男のお子様用と女のお子様用をご用意いたしております。
浴衣タイプと甚平さんタイプがございます。6歳以上の料金対象のお子様に、無料でご使用いただけます。
また、料金対象外の5歳以下のお子様にも一着500円でご使用できますので、ご遠慮なくお申し付けください。
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今まで使用いたしておりました浴衣は、日本の文化を海外でご紹介していただきたく、海外からご宿泊のお客様に無料プレゼントさせていただきます。

ご宿泊時に、フロントまでお申し出下さい。大人の方お一人様につき、1枚プレゼントさせていただきます。こちらのプレゼントは、浴衣の在庫がなくなり次第、終了させていただきます。
Dear guests,

We have recently changed the design of the yukata we provide for our guests. A yukata is a traditional kimono-style bathrobe that can be worn both indoors and outdoors.

We would like to take this opportunity to present yukata bearing the previous design to our international guests. We hope this will help to introduce Japanese culture abroad.

These yukata are available in adult sizes free of charge at our reception counter. As we only have a limited number left in stock, we would ask that you restrict yourself to one item per person.


Management
Ryuusenkaku


有馬ナビ新年号に引き続き、如月号でも、平家物語の舞台のご紹介です。
次回は、「一ノ谷」周辺の観光スポットをご紹介します。神戸〜有馬温泉にお越しの際にご参照下さい。
(2004/12/28)

※このページは2005年1月に発行されたものです。
最新の有馬温泉と周辺観光地の情報は『龍泉閣日記』をご覧ください。



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注)営業時間や料金などの情報は、発行された時点のものです。
詳しい情報は各施設にお問い合わせください。リンク、もしくはTEL番号をご参照ください。