大化の改新の二年後、孝徳天皇が有馬にやって来られました。宮殿を建てるのに十分な木がないか探し回ったところ、杉の木が豊かに育っている山を見つけました。

07そこで、天皇はその山の杉を使って、立派な宮殿を建てました。大喜びした天皇が「この山の功 績は大きい」とおほめの言葉を与えられたので、人々はこの山を「功地山(くむちやま)」と呼ぶようになりました。また、この山の脇にある谷は、杉が切り出 されたことから「杉谷」と呼ばれています。

この時、中大兄皇子や中臣鎌足もお供として一緒に有馬にやってきました。孝徳天皇の子、有間皇子(ありまのおうじ)には、その名から有馬でお生まれになったとの説があります。この他にも多くの著名人が、有馬を訪れています。

08むかしむかし、ある人妻が夫に愛人がいるのを突き止めて、愛人を殺し自分も深い温泉に身を沈めました。

08_p2その後、美しい女性がこの温泉のそばに立つと、湯が激しく煮えくりかえるようになったため、これを「妬湯(うわなりゆ)」と呼ぶようになり、そこに妬神社が建てられました。

08_p1伝説の湯は今では涸れていて、その裏手に新しい泉源が掘られていますが、妬神社の赤鳥居は現在も残っています。

ある時、松永城主が葦毛の馬に乗り、重藤の弓と白羽の弓と白羽の矢を持って、鷹狩をしていると、湯泉神社の祭神である熊野久須美命(くまのくすみのみこと)が狩場を通られました。松永城主は怪しく思って祭神様を射ようとしました。

09 すると、祭神様は袂(たもと)から小石を取り出して、松永城主に向かって投げつけました。この小石が年月を経て大きくなり、袂から投げられたので、「袂石(たもといし)」とか、「礫石(つぶていし)」と言われるようになりました。

その後、有馬では葦毛の馬や重藤の弓、白羽の矢を持って入ることが禁じられました。もし、この決まりを破って有馬に入れば、晴天が急に曇って、風雨が激しくなると伝えられています。

09_p太閤橋のかたわらにある袂石の大きさは、高さ5m、周囲19m、重さ130トンもあります。また、湯泉神社のある愛宕山公園の山上には天狗岩があります。いずれも古代の巨岩信仰の遺跡ではないかと言われています。

11天正十七年(1589年)に太閤秀吉が有馬を訪れた時のことです。清涼院から西南の方向にある高台に登り、杖でとんとんと地面をたたいて祈りました。「もし、この地に温泉が湧き出したら、海の彼方までわしの土地になるだろう。湯よ、湧き出せー!」

すると、足元から少しずつ湯が湧き出し、温泉場になりました。

人々はこの温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼びましたが、太閤様が亡くなると湯も湧き出なくなってしまいました。

温泉寺から念仏寺にあがる坂道は「願い坂」と名付けられています。

12ある時、太閤秀吉が天神山のそばの金湯山蘭若院阿弥陀堂という禅寺を訪ねた時のことです。

和尚さんは澄西和尚といいました。この和尚さんの頭は、とても大きく猪みたいな形をしていたので、太閤様は「妙な形の頭じゃな。そうじゃ、利休を呼べ!」と、千利休を呼び、和尚の頭の形をした茶釜を作るように命じました。

利休はこの釜を天下一与次郎に作らせて、「猪首釜」と名付けましたが、人々は寺の名から「猪首釜」のことを「阿弥陀堂(あみだどう)」と呼ぶようになりました。
これが茶の湯に用いられる「阿弥陀堂釜」の始まりです。

この阿弥陀堂釜は、糸桜で有名な善福寺に今も伝わっています。

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